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取り留めのないものであっても、その一つすら無駄にはしたくなくて。
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国道沿いの道
深夜、あてもなく家の外に出た。普段歩くことがないような道を選んで、
ひとまず遠くに、歩いた。
あてがないとは言いつつも、こういう時自然と歩が進む場所は決まっていた。
綺麗な町々の光が遠くに見えるところ。
深夜であっても、車の多い国道沿いの道。
こういう意味のないことをしている時は、何かしらで気持ちが晴れない時だ。
もうどうしようもなく、変えることができない現実が目の前ある時。
意味なんてなくていい。とにかく動いていないと、精神的にだめになりそうだった。
というより、この時すでにだめだったのかもしれない。
持っているものは、スマホと、財布と、イヤフォンの三つ。
耳元で流している曲は、普段あまり聞かないようなバラードとか、そういう落ち着いているもの。しかもその大半は、ネガティブな曲ばかり。
こういう時ポジティブな曲はかえって毒になる。
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ひと昔前、自分がかなり落ち込んでいた時の話。
今じゃこういうこともめっきり減ったけど、多分きっと、こんな経験をしている人も少なくはないと思う。
ただ、本当に心が死んでしまったのなら、きっと家の外になんて出られないだろうし、今こうして、こんな風に書いておくこともできないのだから
自分は往々にして幸福な部類に入るのだろうな、なんて思う。
主観性からの逃避
誰かを褒める時、その人が持つものに前向きな感情を覚えて、それを言及したいと思った時。
自分にとってそれは前向きな要素であって、ポジティブな側面を持っているからこそ、それを持つ当人に、言葉で伝えたくもなるのだろうけれど
その当の本人は、その要素に対して本当にポジティブな感情を持っているかどうかわからないのだから難しい。
体の特徴なんかがいい例なのだと思う。
身長が高くて羨ましい。
筋肉質で羨ましい。
なんていうのは、比較的ポジティブな感情を抱くものだと思う。
けれど当の本人が、例えば華奢で、小柄な体型に憧れを持っているとしたら、この褒め言葉は言われる本人にとってなんの褒め言葉でもなく、むしろネガティブなものになりかねない。
…まぁ何が言いたいかなんて、そんなものあまり考えずにあれこれ思ったことをそのまま書いているのだけれど、
兎にも角にも、人によって感覚なんて違うのだからそれには気をつけておきたいよねってこと。
ただ、それで片付けてしまっていいものかと、少し悩むような話でもあるのは確かであって。
なぜなら、自分が見ている世界が絶対じゃないのなら、何を信じて生きたらいいのか、とかそういうレベルの話になるから。
自分の思うこと考えること全てに自信が持てなくなるのだから、それはそれで恐ろしい。
人は主観性から永遠に逃れられない。